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支那事変最大の激戦上海戦・1937年8月9日大山中尉惨殺事件→8月13日支那大軍が国際租界日本人居留区包囲攻撃→8月14日支那軍機がホテル爆撃→日本が「暴支膺懲」宣言→日本海軍が『渡洋爆撃』



写真上
上海で日本の第一上陸隊の大山勇夫中尉の遺体の発見現場の実地調査を行う日本軍関係者。

写真下
日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機
1937年8月、台湾や九州から、南京や上海や杭州へ、世界初の長距離「渡洋爆撃」を敢行した。

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1937年8月13日、支那事変最大の激戦「上海戦」(第二次上海事変)が始まった。 8月9日に虹橋飛行場で発生した銃撃戦をもって「上海戦」(第二次上海事変)の始まりとする場合もあるが、一般的には8月13日が始まりと言われる。

1937年7月に起きた盧溝橋事件をきっかけに、北支で日本軍と支那軍が戦闘状態となり、上海でも緊張が続いていた。

8月9日、日本海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉と、運転手の斉藤要蔵一等水兵が車に乗って支那の軍用空港だった上海虹橋飛行場に向かったところ、共同租界用の自由通行路上で支那保安隊隊員との間で銃撃戦が発生。日本側は大山中隊長と斉藤一等水兵が死亡、支那側は保安隊の隊員1一人が死亡した。

これを受け、日本総領事は上海市長に対し、国際租界とフランス特権区域の隣接区域からの支那保安軍の一時撤退を提案。しかし12日、支那正規軍が上海国際共同租界の日本人居住区域を包囲した。

13日、ついに支那軍は上海国際租界の日本人居留区の包囲攻撃を開始し、日本軍との間で戦闘状態となった。

15日、日本側は正式に松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成。これにより、支那事変は本格的に中支那にまで拡大した。

以降、日支両軍は3カ月にわたり激戦を展開。兵力は支那側が上回っていたが、日本側が制空権、制海権を握り、10月26日、上海近郊の要所である大場鎮が陥落。支那軍は南京方面に撤退し、11月、上海は日本軍によって占領された。




蒋介石は、西安事件でソ連に降伏して対日戦に合意し、上海郊外の非武装地帯に多数のトーチカを建設し始めた。

これは盧溝橋事件よりも、かなり以前から始めていたことだ。

盧溝橋事件が起こると、蒋介石は戦争準備を本格化させ、ドイツ軍将校指導の下、7万のトーチカからなる巨大要塞を建設し、上海から南京に至る途中にはヒンデンブルクラインなる防御線を完成させた。

その上で、上海の外側に、遠巻きに保安隊を配置し、徐々に包囲網を狭めていった。

その頃、保安隊の進出で戦争を察知した住民は外国租界へと避難を始めていた。

これを裏付ける物として、毎日新聞社刊『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』に8月6日の日付けで"住民が外国租界へ避難している"写真がある。



一方、そんな事とは知らない日本は、通州で日本人居留民約260人が大虐殺されてから10日も経っていないのに、支那へ和平を持ちかけた。

しかも、その条件は信じられないほど大幅に譲歩したものだった。


この時の日本側の和平案は以下のとおり。

――――――――
(日本の和平案)
・塘沽協定の解消
・梅津-何應欽協定の解消
・土肥原-秦徳純協定の解消
・冀察政権の解消
・冀東特殊貿易の廃止
・非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
・華北における自由飛行の廃止
・支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消
――――――――


日本が如何に戦争をやめたがっていたかは、この大幅に譲歩した和平案を見れば明白である。


ところが、8月9日に予定されていた和平会談は、当日、支那が海軍陸戦隊の大山中尉を上海の虹橋飛行場近くで惨殺してぶち壊した。



実は、この日は、揚子江の奥地から居留民が陸戦隊ともども上海に引揚げて来ていた日だった。

大山中尉は、周辺地区の巡回に行き、虹橋飛行場近くで、進出中の保安隊に遭遇して殺された。

日本側は支那に抗議したが、日本に責任をなすりつけて取り合わなかった。


支那いわく「大山中尉が支那兵が止めるのも聞かず、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」。

大山中尉は拳銃を持っておらず、運転手の斉藤水兵は持ってはいたがホルスターに入ったままで殺されていたのに。

大山中尉と運転手の斉藤水兵の車は機関銃で蜂の巣にされ、中尉は車から引きずり出され、銃剣で胸を刺され、かつ大刀で頭を割られていた。

大山中尉惨殺事件と、その後の支那側の態度に危険を感じた海軍は、警備のために陸軍の応援を要請したが、不拡大方針を頑なに貫こうとする参謀本部の石原完爾少将は「上海に陸軍を出すと戦火が拡大するので出せない」と断った。



仕方がないので海軍は、陸戦隊を1,200名程増派したが、追加の陸戦隊が上海に着いた8月11日には、既に国際租界の日本人居留区は支那の保安隊に包囲されていた。

その夜のうちに支那軍は上海付近の鉄道の民間使用を禁じて軍用に切り換えて国際租界に向けて12万の大軍を送り込んだ。

8月12日、上海に送り込まれた支那の大軍は、日本人居留区を包囲していた保安隊に取って代わった。

当時、上海にいたのは海軍陸戦隊4,000名のみで、とても支那の大軍を相手に出来なかったため、海軍は改めて陸軍の派遣を要請した。


緊迫した情勢の中、8月13日、日本政府はやっと陸軍の派遣を決めたが、これから準備するために到着するのに約20日は掛かる。

したがって、海軍陸戦隊には、「絶対に先に手を出すな」と指令したが、この日に支那軍は上海への攻撃を開始した。


翌14日には支那軍が上海市街を爆撃し、キャセイホテルやパレスホテルにも落ち、支那人や外国人に大量の死傷者を出した。



あまりの暴虐さに日本政府は「暴支膺懲」を宣言し、海軍は台風の中、日本から直接爆撃機を飛ばして南京などにある支那軍の飛行場や前線基地を叩き、上海などに居た日本人の命を永らえさせた。

これが世に言う『渡洋爆撃』






8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される。
8月12日、蒋介石軍が上海の国際租界の日本人居留地区を包囲
8月13日、蒋介石軍が攻撃開始
8月14日、支那軍が上海市街のホテルなどを爆撃。この爆撃を日本軍の仕業と世界中に宣伝
8月23日、支那軍が上海のデパートを爆撃。この爆撃も日本軍の仕業と世界中に宣伝

8月~11月、【上海戦】(支那事変最大の激戦)




これが「第二次上海事変」と言われる上海戦の始まりであり、その後も長く長く続く戦争の始まりだった。






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