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義和団の乱(義和団事変)『シナ大陸の真相――1931-1938』 K・カール・カワカミ著■序文■枢密院顧問子爵 石井菊次郎

 外交官としての経歴を歩みだしてまだほんの間もない頃、私は北京で血の洗礼を受けた。私は、男、女、子供を含めて全部で千人ばかりの外国人の一人であったが。当時中国で猖獗を極めていた排外的狂信主義の生贄として、まさに虐殺されようとしていた。

この武装した狂信者の集団は義和団(拳匪)という名で知られていた。彼らの目的は中国にいる全ての西洋人(彼らは日本人もその中にはいると見做していたのだが)の根絶であった。そして彼らは、清朝政府自体の暗黙の奨励を受けていた。彼らの最初の標的は外国の外交団であり、公使館地区に包囲攻撃をかけてきたが、そこには北京及びその周辺地域の他の全ての外国人が避難してきていた。

 1900年6月11日から9週間にわたって、この包囲された地域に銃弾と砲弾が雨霰とばかりに浴びせかけられた。我々が死に直面していない時間は1分たりとて無かった。我々の中に正規軍の兵士は百名そこそこしかいなかった。残りは民間人で、彼らはできる限りの武器を手にとって戦いに加わったが、残念ながらそのような武器は殆ど見つからなかった。

 私は勇敢な人々が私の目の前で次々に倒れていくのを見た。食料は僅かしかなかった。弾薬は底をつき補充のあては無かった。外部の兵力が我々の救援にやってくるという知らせは無かった。状況があまりにも絶望的な様相を帯びてきたので、我々防御側の仲間の一人であるW・A・P・マーチン博士(彼は米人学者であり宣教師であった)は、キリスト教列強諸国による中国分割を世界文明に促す熱烈な訴えの手紙を書いたが、従来彼は最も熱烈な中国の共鳴者であり、かつまた最も誠実な中国の友人であったのである。

 だが神の摂理は、我々が全滅せぬことを願っておられた。包囲攻撃が始まってから10週目の初めに、多国籍軍(その9割は日本軍)が外壁を急襲して突破し、公使館地区に突入して我々を死の淵から救い出したのである。我々の一部が生き延びて救援軍を迎えることが出来たのは、奇跡以外の何物でもなかった。

 外国人に対するこのような殺戮の発生した原因はなんだったのか。それは中国人の主権を列強諸国が侵害したことだ、と中国人は答える。彼らは不平等条約を中国に押しつけ、関税自主権を奪ってしまった。彼らは租界という形で治外法権区域を設定した。彼らは無防備な沿海地域を砲撃し、何千という罪のない民衆の命を奪った。これらのありとあらゆる蛮行を一体どうやって止めることが出来たのか。それは外国人の鬼(中国人は欧米人と日本人をこう呼んだ)を絶滅することによってのみ可能であった。義和団事件はまさにその結果であった。

 事変が平定されて後は、野となれ山となれであった。外国人の鬼は根絶されなかった。それどころか逆に、彼らは数が増え、さらに強大になった。そして彼らは以前よりもっと我が物顔に振舞うようになった。ますますひどくなる外国勢力の侵害の大洪水の中で、中国国家という船は絶望的にもがき続けた。一口に言って、中国は崩壊寸前だったのである。中国自身の自立能力によってではなく、中国の領土を保全しようとする列強間の合意によってのみ、中国は分割されずに存続することを許されたのである。

 中国史のこの恐ろしい悲劇的な1頁が教える教訓とは何なのか。簡単に言えばこういうことだ。つまり中国は外国人の邪悪な点だけを指摘して、自分自身の間違いは何一つ認めようとしなかったのである。中国は自分自身を世界に冠絶した国家であると考えて、あらゆる非難を列強諸国に向け、自分自身を何一つ責めようとしなかった。このような態度の中に、日本のそれとは異なる中国の特異な国民性を探る糸口が見つかるであろう。

 日本の対外関係を修正しようとして私がささやかな役割を果たしたこの数十年間を振り返り、日本が開国して間もない頃に外国の侵入勢力とぶつかった経緯は、現在の中国のそれと全く同じであることを私は認めざるを得ない。我が日本の無防備な海岸は外国の艦船に砲撃された。不平等条約が日本に押しつけられた。治外法権の恥辱の烙印が我々に押された。我々は関税自主権を失った。我々が管轄している国土の中に、外国の租界が作られた。一般的に、外国人たちは我々に対して殿様顔に振舞っていたのである。

 このような状況を打開するために、我々はいかなる方法をとったか。答えはただ一つ。つまり自己検証である。我々は自分自身の欠点を認めた。我々は決して排外運動を煽り立てたりしなかった。中国の義和団事変に相当するようなものは、日本では何一つ起きなかった。外国人を大量虐殺するような試みはただの一度も企てられなかった。


 その反対に、我々は西洋文明の優越性を率直に認めた。喩えて言えば、我々は欧米と言う師匠の下で一つの国民として学校へ通い、平和の技術さらには戦争の技術さえをも学んだのである。中でも特筆すべきは、我々は新しい学校制度を発足させた。若者の心に排外的な敵意を植えつけるのではなく、彼らを戒めて欧米の輝かしい歴史を学ばせた。高等教育機関が設立された。法律は成文化され、司法制度は再編成された。全くの自己規律によって、我々は誘惑的な外国の阿片商人の侵入を撃退した。国の隅々まで平和と秩序が行き渡り、外国人の生命と権利は完全に守られた。こうなってから初めて我々は列強諸国に向かって要求した。我々の成長ぶりを認識せよ、我々が対等な関係で文明諸国の仲間入りするのを認めよ、と。そして彼らはそれを認めたのである。

 外国勢力の侵害を処理するにあたっての、日本と中国のやり方の鮮やかな対比は、「旅人の外套と北風」の古い寓話を思い起こさせる。北風が旅人の背中から外套を吹き飛ばそうとして烈しく吹きつければ、旅人はよりいっそう必死になって外套にしがみつく。太陽が前から暖かい光で照らせば、旅人は自発的に外套を脱ぐ。中国は北風のやり方を選び、日本は太陽のやり方を選んだ。前者にとってその報いは、内部混乱と外国列強との断続的な抗争の期間がいたずらに長引いただけであった。後者にとっては、国内発展及びその結果、列強国家として国際的に認められたということが、その報酬であった。

 義和団事変以降、中国が目覚しい発展を遂げたことについては何人も否定できない。しかしながら中国の過去37年間の歴史を見ていると、中国の特異な排外主義は形を変えて現れ続け、その結果周辺諸国とりわけ日本との友好関係を損なうに至ってしまった、という見解は正しいように思える。その特殊な排外主義は、中国が自分自身の国内に導入した共産主義の影響によって強められてきた。何故ならばその影響の背後にあるコミンテルンは、その思想と行動において明らかに排外的だからである。

 新秩序及びその中国との関連についていくつかの言葉の意味は、第1次大戦の激動で取り乱した世界にとって徐々に明らかになったと我々は考える。この新秩序は、中国は外国人に対する原始的な憎悪を克服した近代国家であり、国際的な義務を進んで守り且つ遂行できるということを前提としていた。だがしかし、中国は近代国家ではなくて未だに中世的な国家であることが明らかになった。西洋教育を受けた中国の外交官たちは、九ヶ国条約を日本が侵犯している、といって声高に非難する。だが彼ら自身の政府は、条約義務の尊厳を守ったためしが殆ど無いのだ。

 新世界の秩序は、大国であると小国であるとを問わず全ての国々が、この条約が要求する義務を遂行できるようになって初めて維持されるのだ。先ず第1に九ヶ国条約は、法律上正当な権利を守るために列強が武力手段に訴えるのを差し控えるよう要求している。第2にそれは、父親が自発的に鞭を捨てたのにつけこむ腕白坊主のような真似をしないよう、小国に命じている。もしも小国が、この新しい平和機構に隣国が拘束されているのを知りながら、その機構のよって立つ基本原理を平気で茶化したりするならば、その茶化された隣国に常に温和で寛容な態度を保つよう期待するのは果たして妥当であろうか。この問いかけにはきちんと答える必要がある。

枢密院顧問子爵 石井菊次郎

序文
『シナ大陸の真相――1931-1938』 K・カール・カワカミ著

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「義和団事件」__ 『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年) より

義和団事件

 閑話休題。雨に煙る田園を後にして北京に到着。北京は埃と砂嵐の町、乾燥した平地と禿山の町、夏暑く冬寒い町である。黄海までは160キロ足らず。港は天津郊外の大沽である。

 1900年の夏、事件が起きた。「義和団」という狂信的秘密結社が宣教師を殺害したことに触発され、中央政府の守旧派が義和団に加勢して外国人排斥を企てたのである。包囲された北京の公使館員の救出に、連合軍が大沽から北京へ進撃した。救出軍が到着する前にドイツ使節を含む多くの外国人が惨殺された。ところが救出軍を目にしたとたん、中国側は政府軍も義和団も守備を固めるどころか、算を乱して敗走した。事変後、平時における外国人殺害という、国際儀礼違反に対して賠償を課された。その7年後、アメリカは賠償金2千5百万ドルをアメリカ国内に学ぶ中国人学生の教育に活かした。ところで、西太后はじめ中国側は、連合軍が当然の措置として首都北京を永久に支配するものと覚悟していたが、思いもよらず赦免され、復権を許されたから驚いた。アメリカをはじめとする連合軍は「略奪蛮行」と非難された。中国人は「非常に寛大な措置」に大喜びした。進言を受けて屠殺を命じた当の西太后は「お構いなし」で済まされた。講和文は条約文書としては実に奇妙なものである。まず友好だの親善だの美辞麗句を長々と連ねた前文があり、続いて崇高な条文が来る。西太后以外の虐殺実行者には「清王朝の恵み深き特赦により自決を許」された。その他、外国人に「清朝の寛大さを示す」ための条文が作られた。

 この事件の数年前(“後”の誤植だろうと思われる)までは一応友好的で宣戦布告することがなかったので、外国要人を襲い、武力紛争を起したことは忘れられ、中国人は「平和愛好者」との評価を取り戻した。メッキは剥がれるものである。1927年、同じような事件が南京で発生した。国民党の正式指令の下、小規模ではあるが、あの「北京の包囲と屠殺」が南京で起こったのである。この事件で殺害された者の中には英国領事館員も一人含まれていた。南京は北京上海間にあるから運良く当時英米の砲艦が近くにて、襲撃者を打ち払い、包囲されていた人を救出した。

 ここ50年、中国で外国人の虐殺が起きるたびに「今ここにこのような蛮行は終わりを告げた。今後、中国人は平和を愛する責任ある近代国民になるのである。よって、以後、中国人に悪意を抱くことは不親切であり且つ不当である」と宣言する立派なアメリカ人が何人もである。が、こういう立派な連中は墓穴を掘っているようなものである。無知なアメリカ人は「このような残虐行為は無教養なものやごろつき連中が繰り返している仕業だろう」と思っているが、そうではない。1900年の義和団事件と同じく、れっきとした政府高官によって何度も繰り返されていることなのである。

 第31代大統領ハーバート・フーバーは義和団事件の生き残りだそうである。事件当時天津にいたそうだ。

 閑話休題。義和団の蜂起は「義和団の乱」と言われているが、私に言わせればネーミングミスである。というのは通常、「乱」は「現政府に対する反乱」という意味で使われる。ところが義和団事件ではあろうことか、当の中国政府自身が義和団の初期の勢いに乗り、同盟を組んだのであるから。

 政府に後押しされた群集が、防禦が整っていない外国人居住地を襲い女子供までも殺害したとしても特段驚くことではない。確かに1927年の事件以来、大きなことは起きていないが、上海とて安全とは言えない。というのは、外国人は一箇所にまとまっているわけではなく、国際租界やフランス租界に散らばっていて、その周りには中国人が数十万もいるからである。ということは、一旦事が起こったら直ちに一塊になれる体制でないと(南京ではそれができたので助かったが)、砲火から守ることはできないということだ。

 それにしても、なぜ中国人は外国人を虐殺したがるのであろうか。それは、外国人が裕福であるからである。また中国の指導層も同じで、略奪権を与えるのである。もちろん、中国軍が自国民つまり中国人を襲うことは日常茶飯事であるばかりか、殺そうと何しようとまったく平気である。外国人を狙うことはそう頻繁にあるわけではないが、やっても捕まらないと判断した時、やるのである。中国人に寛大な人が増えているから、ますます増長しているのである。
(P43~45)

『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)

スーツケース核爆弾

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スーツケース核爆弾 2006/10/30 1:53 [ No.962 / 976 ]

投稿者 :
leman_the_3rd


アタッシュケース核爆弾にせよスーツケース核爆弾にせよ、紛失と言う話はガセネタだったのではないでしょうか?
旧ソ連では核爆弾、核弾頭はKGBが管理していて、軍人には管理を任せていません。
KGBがソ連崩壊時でもしっかり機能していたことは、プーチン大統領が権力基盤を固められた(プーチンはKGB出身)事でも確からしく思います。
そういう管理体制にあることは、アメリカなどは先刻承知なのでありえない話だと思っているのかも知れません。

スーツケース核爆弾、アタッシュケース核爆弾は大きさがスーツケース大、アタッシュケース大というだけで、やっぱりそれなりに重いのです。
ソ連のスーツケース核爆弾は、元々工事現場の発破の替わりにしようと作られた物で、重さが60kgほどもあるそうです。
一人で運ぶには少々無理だと思います。
残留放射能の問題が解決できず、発破の替わりには成りえなかったようです。(当たり前のようですが、ソ連は結構こう言う事を行います。核爆発で溜池作ったり・・・・・・・・・。その溜池はやっぱり残留放射能で泳ぐことも出来ません。)

テロリストにとって核物質は扱い難い物なのです。
というのは、核物質は常に崩壊して放射線を出しています。
例えば、プルトニウムは、常時少しずつ崩壊してアメリシウムという物質に変化していますが、その過程でα線とγ線が出ます。
α線は紙一枚で遮蔽出来ますが、γ線は単純にマスでしか遮蔽出来ません。
γ線は固有のエネルギー量を持っていて、何の物質から放射されたγ線かは、センサー等があれば解ってしまいます。
つまり、「やあやあやあ、我こそはプルトニウムなり~~、近くば寄って目にも見よ~~。」と名乗りを上げているのです。
テロリストとしては、普通の爆弾を持ち運ぶ方が何倍も簡単で、バレ難いのです。

成田空港などにはこのセンサーが仕掛けられていて、アメリカ向けの貨物等はチェックしていると新聞等で読みました。

このようなγ線を検知するセンサーを警察のNシステムや駅の改札、高速道路のインターチェンジ、税関などに多数仕掛けたと発表する事は、核テロ抑止には有効だと思います。

日本はプルトニウムを佃煮にするほど持っていますが、流出したという実績もないので、それなりに良く管理されていると考えて構わないと思います。
IAEAのお墨付きです。

ですが、プルトニウムを撒き散らすテロも考えられることですので、貴方の言う通りしっかり管理する事が必要でしょう。

返信

これは メッセージ 947 okhiroshicyan さんに対する返信です

日露戦争に至るまでの背景と経緯を年表とともに。地中海の不凍港を求めて失敗したロシアは、次に極東の不凍港を求めて満州と朝鮮に南下して来た!

ロシアには不凍港がなく、ロシアは不凍港がほしかった。

1832年のエジプト事件、1853年のクリミア戦争、1877年の露土戦争で、地中海方面での南下政策に失敗したロシアは、極東を南下することにした。

1858年、ロシアは第二次阿片戦争を利用し、アイグン条約で黒龍江以北の地を、1860年、北京条約でウスリー川以東の沿海州を、清から讓受けて初の不凍港ウラジオストックを建設した。

そして、1861年にはロシアが対馬の占領を企て軍艦を停泊させた「対馬事件」(露艦対馬滞泊事件)が起こった。
対馬藩と幕府の撤退要求にもロシアの軍艦は動かず、島民の激烈な抵抗とイギリス軍艦2隻の威嚇でようやく退去した。

1895年、日清戦争で日本が遼東半島を讓受けると、ロシアは「三国干渉」を行なった。
三国干渉によって日本は清国に遼東半島を返還することになったが、結局、ドイツが膠州湾や青島を、イギリスは威海衛と九龍を、フランスは広州湾を勢力圏にし、ロシアに至っては何と日本に返還させた遼東半島の旅順・大連を自分のものにしてしまった。
ロシアは、日本が清国に遼東半島を返還すると、1897年9月清と秘密条約を結び、満州横断鉄道の敷設権を獲得、さらに翌1898年、遼東半島を25年間租借し、大連とハルビンを結ぶ東清鉄道の敷設権を獲得し、旅順・大連がロシアのものとなった。

清国はヤクザにモノを頼んだのと同じで、列強から「落とし前」を付けさせられたのだ。
このことは、当然日本にとっても痛かった。
日本は遼東半島をロシアなど3国によって返還させられたのだが、結局、ロシアはそれを奪い、更に朝鮮にまで勢力を伸ばして日本に迫って来た。
朝鮮半島は「日本の柔らかい下腹部に突き付けられた短刀」だったが、ロシアはその短刀(朝鮮半島)を狙っていた。
――――――
 日本においては、外交政策の主要問題に関する意見が2分されていた。一方の有力者たちは、露国勢力と対抗するために欧州に同盟国を求むべきこと、そして斯かる同盟は英国を措いてないことを強硬に主張した。だが、日本の最も卓越した政治家伊藤公の率いる他の1団は、日本は露国に挑戦し得るほど強大ではなく、英国との同盟は安全よりはむしろ危険を多く包蔵し、日本の執るべき道は、満州における露国の覇権並びに朝鮮における日本の覇権という原則の上に立って露国と妥協することにあると主張した。
これに基づいて露国と協定を結ばんとする努力が繰返されていたが、一向に成功しなかったのである。即ち日本は1898年に露国に提案し、『もし露国政府が朝鮮に関して同様の宣言をなす用意があるならば、日本政府は満州並びにその沿岸は全く日本の利害関係の範囲外と見做す用意がある』と言明した。しかし露国政府は、満州に関する日本の態度に『大なる満足』の意を表しはしたが、朝鮮に関してそのような保証を与えることは拒絶した。事の真相は、ロシアが、陸軍国としての日本を蔑視し、日本の歓心を買わんがために何らかの譲歩をなす必要は毫も認めなかったものである。
『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著
――――――
日露開戦が避けられない事態に進展したのは、北清事変後のロシア軍満州撤兵をめぐる対立だった。日英両国の抗議により、ロシアは清国と満州返還の条約を結んで第一期撤兵を行ったが、翌年には撤兵するどころか兵力を増強して満州地域の要塞を強化、さらには朝鮮半島への進出を意図して・・・
『日本海海戦の真実』 野村実著
――――――

このように、ロシアは、満州の次に更に南下して朝鮮を手に入れようとしていた。

釜山などにロシア艦隊が居座れば、対馬や福岡や下関などは何かの時には直ぐにロシア艦隊から攻撃を受けてしまう。
そのような状態で1861年の対馬事件のようなことをして来れば、たちまち戦争になって日本が多大な犠牲と損害を出して負けることは火を見るよりも明らかだった。

だから、日清戦争によって朝鮮が独立した後も、日本は朝鮮を放ってはおけなかった。

日清戦争に至るまでの背景と経緯を年表とともに。1875年江華島事件~1895年下関条約

1875年、江華島事件
明治新政府が李氏朝鮮に国交と通商を求めたが、朝鮮は清国の属藩であるため条約を結べないという理由で、開国を拒否していたため業を煮やした日本は、軍艦を使って江華島で大砲をぶっ放し、国交を開かせる

1876年2月、日朝修好条規(江華条約)締結
第1条、朝鮮は自主の国で日本と対等の権利を保有すること

1882年
7月、壬午の変
6人の日本人が殺害され、日本公使館も襲撃され放火される
8月30日、済物捕条約
日本は朝鮮から謝罪・賠償のほか、 公使館護衛のため駐兵権を得る

1884年12月4日、甲申の変
開化派の独立党の金玉均たちがクーデターを起こし、国王を立て大政一新を布告
事大党は清国に援軍を求め、袁世凱が2,000人の清軍を率いて武力介入したため、結局失敗に終わり、金玉均たちは日本に亡命
しかも、このとき清国の軍隊は宮廷内にいた日本人を殺害し、金玉均たちが日本公使館に逃げ込むとそれを攻撃している。
公使館も防戦したが、結局、婦人を含む多数の日本人が惨殺され、外交官たちは公使館を脱出し、日本公使館は焼かれた。

1885年1月9日、京城条約締結。朝鮮が日本に謝罪賠償
4月18日、日本と清国が天津条約を締結
――――――
天津条約
1.清国朝鮮に駐紮【軍隊がとどまること】するの兵を徹し、日本国朝鮮にありて使館を護衛するの兵弁を徹す。期限は4ヶ月後とする
2. 両国均しく允す【許可すること】。朝鮮国王に勧め兵士を教練し、もって自ら治安を護するに足らしむ。また、朝鮮国王により他の外国の武弁一人あるいは数人を選雇し、委するに教演のことを以てす
3. 将来朝鮮もし変乱重大の事件有りて日清両国あるいは一国兵を派するを要するときは、互いに行文知照すべし
――――――
要するに、日清ともに朝鮮から撤兵すること、将来朝鮮に異変が起こり両国または一国が派兵を要するときは、相互事前通知の必要を決めた。
日本の朝鮮における影響力は後退した。

1894年
3月、朝鮮政府が送った刺客の洪鐘宇が金玉均を惨たらしく虐殺
4月、甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発
6月、鎮圧できない朝鮮政府は袁世凱に清軍派遣を要請し、清軍が出兵
このとき、清国が日本に送った通知には「属邦保護のための出兵」とあり、明らかに日朝修好条規(江華条約)と天津条約に違反していた。  
日本は、この条約違反に対し、「朝鮮を貴国の属邦と認めることはできない」旨を回答し、続いて「居留民保護のため朝鮮に派兵する」と通知し派兵

日清戦争
豊島沖の海戦で先に突如撃ったのは清国の「済遠」であり、7月31日の清国政府から公使館一等書記官小村寿太郎への国交断絶の通告を受けて、8月1日に国交断絶・宣戦布告。

1994年9月17日、 黄海海戦。清の北洋艦隊、大敗

1895年4月17日、下関条約締結。朝鮮の独立は認められ、遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、賠償金三億円の支払いが決定
第1条
清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス 因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ








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