正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
本当の歴史と外交! 日本国民の生命と財産と自由を守る核武装!取り戻せ、拉致被害者と領土と国家の誇り!がんばれ!維新政党・新風!
201703<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>201705
橋本明「天皇、韓国訪問だ!残された仕事やってほしい」・TBSの生放送・皇室特別番組で・事故!
↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓






橋本明「天皇、韓国訪問だ!残された仕事やってほしい」・TBSの生放送・皇室特別番組で・事故!
橋本明「天皇に残された仕事をやってほしい!それは韓国訪問だ!」
TBSの生放送・皇室特別番組で糞ジジイが暴言!

平成28年8月8日放送、TBSの生放送・皇室特別番組
番組内容
天皇陛下国民へのメッセージ
▽側近17年・前侍従次長が語る陛下の思い
▽美智子さまと共に築かれた「象徴」
▽ご学友生出演・同窓会で交わした言葉


橋本明「それは韓国訪問だ」平成28年8月8日放送、TBSの生放送・皇室特別番組
安住アナ
「戦地へ積極的に訪問し続けた陛下ですが、橋本さん、少し気になることがあるそうですね?」


橋本明
「今ご覧になっていたとおり、天皇陛下は骨の髄まで平和主義者であります。
その平和主義者である天皇の希望をまともに向けて、しっかりとした手を打つように内閣に私は望みたいと思う。
しかし、天皇にはこれから多分、本当に退位されるまではまだ時間があります。その時間があるうちに残された仕事をやってほしい!それは韓国訪問だ!

安住アナなどスタジオの全員が、橋本明の発言をスルー


↓ ↓ ↓
視聴者が激怒!
「ふざけるな!糞ジジイ!」
「放送事故?!」
「何今の!!??このジジイ死ね!!!」

http://hayabusa7.2ch.net/test/read.cgi/livetbs/1470656907/

橋本明「天皇、韓国訪問だ!残された仕事やってほしい」・TBSの生放送・皇室特別番組で・事故!
■動画
http://fast-uploader.com/file/7026214108242/



この橋本明という糞ジジイは天皇陛下の学友(学習院)らしいが、「陛下の御意志」などを勝手に妄想して暴言を吐いたりすることが以前からあった。

この耄碌爺を生放送に出演させたTBSの責任は重い!

橋本明Wikipediaより

ご学友だったという立場を嵩に、「陛下の御意志」を勝手に憶測・主張することが多く、現皇室からは遠ざけられているようである。
[要出典]有名なエピソード「柳行李ひとつで、来てください。」も橋本の創作であったらしく、今上天皇は否定のコメントを発表している。「ミッチー・ブーム」参照



韓国は今でも天皇陛下のことを「日王」などと呼んで侮蔑し、今回のお言葉に関する報道についても韓国メディアは【「日王生前譲位」王位を継承する徳仁皇太子が戦犯と植民支配を謝罪する可能性が高い】などと、ふざけた報道をしまくっていた。

ソース:ヘラルド経済(韓国語) [日王生前譲位]徳仁皇太子植民支配謝罪するようだ
http://heraldk.com/2016/08/07/일왕-생전-양위-나루히토-왕세자-식민지배-사죄할-듯/



天皇陛下を「日王」などと呼び、歴史を偽造、捏造している韓国のような所に、天皇陛下が御訪問されることなど絶対にあってはならない。

天皇陛下の政治利用など絶対にあってはならない。

韓国訪問など論外だ。

――――――――――
▼韓国の天皇陛下・皇室への非礼の歴史・まとめ▼
・征韓論が起こるきっかけとなった日本の「国書」受け取り拒否
・天皇陛下の「ゆかり」発言を「日王は朝鮮半島人の子孫」と曲解して言いふらす非礼
・2002年サッカーW杯(日韓共催)の決勝戦を前に、天皇皇后両陛下と韓国の金大中夫妻が入場する際、金大中が後ろの天皇陛下のことを全く考えもせず、我がもの顔で観衆に手を振り始め、天皇陛下の通行を妨害した事件
・2007年のえげつない反日デモ
・2012年の李明博大統領による「日王」への土下座謝罪要求
・さらには「朝鮮日報」による李明博の土下座謝罪要求全面支持や金星煥外交通商相による同調
・2014年、韓国の議政府(ウィジョンブ)市議会「月末までに安倍が慰安婦たちに直接謝罪しなければ、日王を韓国で最も強烈な言葉で非難し、全世界の笑い者にする!」との決議文を全会一致で採択
・2015年、韓国の女子中学校の教師「もし機会がくれば、私たちも日本王室の佳子王女を慰安婦に送るほかはない。」 と暴言!
・2016年、韓国人が昭和天皇の生首写真を公開し、「謝るつもりはないよ。可愛そうな少女達を思えばね」

――――――――――

2007年、韓国では次のような反日デモが行われていた!
背中には【昭和天皇 裕仁】の紙を貼り付けている。
背中には【昭和天皇 裕仁】の紙を貼り付けている。
背中には【昭和天皇 裕仁】の紙を貼り付けている。
背中には【昭和天皇 裕仁】の紙を貼り付けている。


平成24年(2012年)8月14日、李明博は「日王が日本の植民地支配からの独立運動をして亡くなった方々を訪ね罪人らしく土下座謝罪するなら来なさい!」と言った。
2012年8月14日に韓国大統領の李明博は、天皇陛下に対して「日王が韓国を訪問したいのならば罪人らしく土下座謝罪するなら来なさい!」と発言した。
2012年8月14日、韓国大統領の李明博が天皇陛下に対して土下座謝罪要求!
李明博「日王が跪いて謝罪するなら来なさい」「痛惜の念という単語ひとつで訪ねてくるなら訪韓は必要ない」と言明
李明博「日王が韓国を訪問したいのならば独立運動で亡くなった人々を訪ね、跪いて謝罪するなら来なさい」

●関連詳細記事
安倍が謝罪しないと日王を世界の笑い者にする!韓国の議政府市議会・韓国の天皇陛下への非礼の歴史
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5391.html
「佳子王女を慰安婦に送るしかない」韓国コラム・「佳子を韓国男に逆らえないよう犯しまくる」在日
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5834.html
韓国人が昭和天皇の生首写真を公開「謝る積りはないよ。可愛そうな少女達を思えばね」3.1節の嘘
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6147.html






平成28年8月8日に発表された「象徴としてのお務めについて」の天皇陛下のお言葉全文は以下のとおり。

【必読】天皇陛下のお気持ち表明、全文
   戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。

 私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉

 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 国民の理解を得られることを、切に願っています。

象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉



>私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。


祈ることが最も重要な天皇のお勤めであるとお考えであることを示唆しておられる。





>天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。


当該部分には、天皇陛下が最善策と考えておられないことが列挙されている。

すなわち、天皇陛下は、高齢化に伴い、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことは良くないとお考えだ。

また、天皇の行為を代行する摂政を置くことについても、あまり良くないとお考えだ。

陛下のご高齢を理由に行為を縮小することや摂政を置くことなどを否定されている。






>天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。


この部分に天皇陛下が仰りたいけど明確に仰ることのできない御提案が、示唆されているものと考えられる。

天皇陛下は「(現役の)天皇の終焉に当たると、行事に関わる人々、とりわけ家族は非常に厳しい状況下に開かれてしまうので、そのような事態を回避したい」と仰せなのだ。

すなわち、天皇陛下は、天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、譲位ができるような皇室制度(皇室典範)に改めてほしいと願っておられる。

天皇陛下が崩御される前に、譲位できるよう、皇室典範を改正するべきだろう。

「象徴としてのお務めについて」の天皇陛下のお言葉全文からは、上記のとおり解釈される。

●関連記事
天皇陛下「生前退位」の意向示される・数年内の譲位を望まれている・陛下の過酷な祭祀などに感謝
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-category-10.html





なお、フジテレビ(FNN)の世論調査によると、「生前退位」が可能となるような【憲法改正】なら「よいと思う」が8割を超えた!

憲法改正が現実味を帯びてきた!

今後、「生前退位」が可能となるように、憲法を改正してもよいと思うかどうかを聞いたところ、8割を超える人(84.7%)が改正してもよいと「思う」と答え、「思わない」は1割(11.0%)だった。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20160808-00000744-fnn-soci
「生前退位」可能となるよう改憲「よいと思う」8割超 FNN世論調査
フジテレビ系(FNN) 8月8日(月)19時32分配信

「生前退位」が可能となるよう、憲法改正をしてもよいと「思う」人が、8割を超えた。
FNNが7日までの2日間実施した電話による世論調査で、天皇が、生前に天皇の位を皇太子に譲る「生前退位」に関し、政府のとるべき対応について尋ねたところ、「『生前退位』が可能となるように制度改正を急ぐべきだ」と答えた人は、7割(70.7%)だった。
「慎重に対応するべきだ」と答えた人は、2割台後半(27.0%)だった。
今後、「生前退位」が可能となるように、憲法を改正してもよいと思うかどうかを聞いたところ、8割を超える人(84.7%)が改正してもよいと「思う」と答え、「思わない」は1割(11.0%)だった。.
最終更新:8月8日(月)19時32分




左:「大嫌韓日記」桜井誠著 (2016/6/16)
中:「カエルの楽園」百田尚樹著 (2016/2/26)
右:「余命三年時事日記2」余命プロジェクトチーム著(2016/5/16)


左:【国産トマト100%】カゴメ トマトジュースプレミアム 低塩 スマートPET 720ml×15本
中:【国産トマト100%】カゴメ トマトジュースプレミアム 食塩無添加 スマートPET 720ml×15本

右:Panasonic 32V型 ハイビジョン 液晶テレビ VIERA TH-L32C6


「天皇陛下の韓国訪問など絶対に有ってはならない!」

と思う人は、↓クリックお願いします。↓





  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく
 ( ∪ ∪
 と__)__)
スポンサーサイト

テーマ:報道・マスコミ - ジャンル:政治・経済

天皇陛下「生前退位」の意向示される・数年内の譲位を望まれている・陛下の過酷な祭祀などに感謝
↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓






天皇陛下 「生前退位」の意向示される。数年内の譲位をご希望。天皇陛下自身が広くお気持ちを表わす予定。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html
天皇陛下 「生前退位」の意向示される
7月13日 19時00分、NHK
天皇陛下 「生前退位」の意向示される

天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。

天皇陛下は、82歳と高齢となった今も、憲法に規定された国事行為をはじめ数多くの公務を続けられています。そうしたなか、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。
天皇陛下は、「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考え、今後、年を重ねていくなかで、大きく公務を減らしたり代役を立てたりして天皇の位にとどまることは望まれていないということです。こうした意向は、皇后さまをはじめ皇太子さまや秋篠宮さまも受け入れられているということです。


天皇陛下は、数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。
これについて関係者の1人は、「天皇陛下は、象徴としての立場から直接的な表現は避けられるかも知れないが、ご自身のお気持ちがにじみ出たものになるだろう」と話しています。

海外では、3年前、皇室とも親交の深いオランダの女王やローマ法王などが相次いで退位を表明して注目を集めました。

日本でも、昭和天皇まで124代の天皇のうち、半数近くが生前に皇位を譲っていますが、明治時代以降、天皇の譲位はなくされ、江戸時代後期の光格天皇を最後におよそ200年間、譲位は行われていません。皇室制度を定めた「皇室典範」に天皇の退位の規定はなく、天皇陛下の意向は、皇室典範の改正なども含めた国民的な議論につながっていくものとみられます。



天皇陛下は、ご高齢であるためのご判断と考えられる。

天皇陛下は、日々、国事行為、その他行為(賓客の接待、国体等への御出席など)に御尽力されておられる。

天皇陛下はまた、神道の法王として、日々、祭祀を行い、日本の国民が幸せになるように、日本が平和であるように、常に祈り続けている。

祭祀は、肉絶ちや水ごりを伴い、日頃からの節制や、体力が要求されるものも少なくない。

それに加えて、国賓の接待や御公務、国事行為等を 日々、精力的にこなされているのである。

若くても、それらの祭祀や御公務や国事行為などは過酷なのだから、80代では過酷極まる。

天皇陛下の祭祀
天皇陛下の祭祀

例えば、毎年11月23日の「新嘗祭」は、天皇陛下がおでましになる30を超える祭祀の中でもっとも重要であるとされ、民間の稲の収穫祭を起源とし、宮中でも古くから行われている。
毎年11月23日の「新嘗祭」
毎年11月23日の「新嘗祭」

天皇陛下は、その年に収穫された米などの新穀を祖先神をはじめとする神々に供え感謝した後、自らも食される。

新嘗祭は、神嘉殿の神座に天照大神の御霊をお招きして、米、粟をはじめとする穀物の今年の出来を奉告、感謝し、また新穀で作ったご飯やお酒を陛下がご自身で天照大神にお供えになり、ご自身でもお召し上がりになる。

神がお召し上がったとみなされるお供え物を人が頂くことにより、その神霊を人の体内に取り入れることができるという考えによるものだ。

神嘉殿の儀式は「夕の儀」(午後6時)と「暁の儀」(午後11時)と同じことが2回繰り返される。
毎年11月23日の「新嘗祭」.神嘉殿の儀式は「夕の儀」(午後6時)と「暁の儀」(午後11時)と同じことが2回繰り返される

この時、天皇陛下は、堅い板の上に座布団も敷かずに2時間も正座しなければならないため、11月23日の夜には合計4時間堅い板の上に正座することとなり、すべてが終了するのは11月24日の午前1時過ぎとなる。

一晩に2時間の正座を2回繰り返すには足に痺れなど負担が大きく、その日の儀式のため、天皇陛下は常日ごろから生活の中で正座に慣れるために正座をされているとのことだ。


足の痺れなどにより神への祈りに一点の心の乱れも無いようにとの思いからでそうされており、私たちは天皇陛下に対してどんなに感謝しても感謝し切れない。

宮中祭祀(さいし)の新嘗祭神嘉殿の儀(夕の儀)に臨まれる天皇陛下。新嘗祭は、その年収穫された新米などを神に供え、収穫に感謝する祭祀(皇居・神嘉殿で、2013年11月23日)=宮内庁提供
宮中祭祀(さいし)の新嘗祭神嘉殿の儀(夕の儀)に臨まれる天皇陛下。
新嘗祭は、その年収穫された新米などを神に供え、収穫に感謝する祭祀(皇居・神嘉殿で、平成25年11月23日)=宮内庁提供



天皇陛下は、このような過酷な祭祀を行わなければならず、80代のご高齢ではお身体への負担は計り知れない!

その他、天皇陛下は、電力不足になれば、自主停電をされ、被災地にもお見舞いされている。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110324/imp11032421310002-n1.htm
両陛下、「自主停電」お続けに
2011.3.24 21:30 [皇室]

 天皇、皇后両陛下が、東日本大震災の被災地に思いをはせ、お住まいの皇居・御所の電気を一定時間使わない「自主停電」を続けられていることが分かった。「国民と困難を分かち合いたい」という趣旨で15日に始めたもので、宮内庁の羽毛田信吾長官らによると、陛下は「寒いのは(服を)着れば大丈夫」とおっしゃっているという。

 両陛下は計画停電で「第1グループ」に分類された地域の停電時間に合わせ、1回約2時間にわたり、明かりや暖房といった電気の使用を一切控え、時にはろうそくや懐中電灯を使いながら過ごされているという。暗い中で夕食を取られることもあったようだ。

 両陛下は、第1グループで停電が計画されたものの、実際には電力供給が逼迫せず、停電がなかった日も、当初の計画時間に合わせ、自主的な停電を実行された。15日から23日までは1日も欠かさずに行い、スケジュールに合わせて同じ日に朝晩2回、電気を止められた日も複数回あったという。宮内庁東宮職によると、皇太子ご一家も、同様の「自主停電」を、お住まいの東宮御所で行われているという。

 計画停電では、皇居のある東京都千代田区は対象地域になっていない。

●関連記事
両陛下が毎日「自主停電」・菅首相の自宅は停電対象外
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4187.html



http://www.news-postseven.com/archives/20120211_87099.html
被災地の両陛下「自分達が履く訳には・・・」とスリッパ脱がれる
2012.02.11 16:00

 東日本大震災以来、天皇、皇后両陛下は幾度も被災地にお見舞いに向かわれた。今あらためて被災した東北3県を取材し、お見舞いの際に両陛下と被災者の間に生まれた心温まる秘話を再現する。

 東北3県のうち最初のお見舞い先は4月27日の宮城県。両陛下が同県で最初に視察された被災地、南三陸町の町長・佐藤仁氏(60歳)が振り返る。

「両陛下は町立伊里前小学校の校庭に自衛隊ヘリで降りられ、被災した市街地を校庭の隅から視察されました。学校は高台にあり、校庭の先は崖になっているため、安全を考えて校庭の隅にある花壇の手前に立っていただく予定にしていたのですが、両陛下は崖のすぐ近くまで歩み寄られ、じっと眼下の市街地を見ておられました」

 両陛下は市街地に向かって黙祷を捧げ、佐藤町長から被災状況などについて説明を受けられると、被災者が待つ町立歌津中学校の体育館を訪ねられた。同行した佐藤町長はそこで両陛下の心遣いの深さを目の当たりにする。

「私が先に体育館に入り、両陛下をお迎えしました。実は当時はまだ物が不足していて、スリッパも用意できたのは両陛下に履いていただく2足分だけで、私はスリッパを履いていませんでした。すると、それを見られた皇后陛下が、いったん履かれたスリッパを脱がれたのです。さらに天皇陛下までがスリッパを脱ごうとなさった。それで皆で慌ててお止め申し上げたのですが、他の誰も履いていないのに、自分たちだけ履くわけにいかない、というお心遣いだったのでしょう」

※SAPIO2012年2月22日号


この記事を読むと、天皇皇后両陛下は、平成23年(2011年)の南三陸町でのみスリッパをお履きにならなかったかのように思うかもしれないが、両陛下はかなり以前から被災者のお見舞いではスリッパをお履きにならないことが多かった。

雲仙・普賢岳噴火でお見舞いの言葉をかけられる両陛下(スリッパ無しで正座されている)
雲仙・普賢岳噴火でお見舞いの言葉をかけられる両陛下(スリッパ無しで正座されている)


中越地震の被災者をお見舞いなされた天皇陛下=2004年11月06日、新潟県川口町の川口中学校体育館(スリッパ無しで正座されている)
中越地震の被災者をお見舞いなされた天皇陛下=2004年11月06日、新潟県川口町の川口中学校体育館(スリッパ無しで正座されている)


避難所を訪れ、被災した人たちと話す皇后さま=2011年4月27日、宮城県南三陸町の歌津中学校
避難所を訪れ、被災した人たちと話す皇后さま=2011年4月27日、宮城県南三陸町の歌津中学校(スリッパなし)

宮城県南三陸町の避難所で、被災者に声をお掛けあそばされる天皇陛下、皇后陛下 御尊影=2011年4月27日午後、同町の歌津中学校(スリッパなし)
南三陸町の避難所で、被災者に声をお掛けあそばされる天皇陛下、皇后陛下=2011年4月27日午後、同町の歌津中学校(スリッパなしで正座されている)
━━━━━━━━━━



左:「さよならパヨク 」千葉麗子著(2016/4/16 )
中:「カエルの楽園」百田尚樹著 (2016/2/26)
右:「余命三年時事日記2」余命プロジェクトチーム著(2016/5/16)


左:カゴメ ふくしま産トマトジュース食塩無添加 スマートPET 720ml×15本
中:Panasonic 32V型 ハイビジョン 液晶テレビ VIERA TH-L32C6
右:「三島由紀夫が生きた時代 楯の会と森田必勝」村田春樹著(2015/10/20)


「天皇陛下に感謝!」

と思う人は、↓クリックお願いします。↓





  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく
 ( ∪ ∪
 と__)__)
>>続きを読む

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

先帝陛下:昭和天皇のお話・お言葉と全国ご巡幸・フジテレビによる「昭和の日」抹消事件の新画像
↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓






先帝陛下(昭和天皇)昭和の日
先帝陛下(昭和天皇)

4月29日は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」昭和の日だ。

【先帝陛下(昭和天皇)のお話】

●戦中
アッツ島の日本軍守備隊
アッツ島の守備隊

昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、先帝陛下(昭和天皇)は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。

5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」

陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。

そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」 と申上げると、

陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。

陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。

勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。


1943年5月,アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品がアンカレッジの博物館に展示されている。
アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている

『 凛として愛 』
■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U

57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。






●戦後

先帝陛下昭和天皇行幸
先帝陛下(昭和天皇)の戦後の全国ご巡幸

毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。

日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。

このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。

まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。


昭和天皇(先帝陛下

●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉

「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。


九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。





【マッカーサーおよび侍従長の証言】

以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。

「天皇の話はこうだった。
 『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)

天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。

しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。

メールマガジン
「話題通信」



昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk






戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜

●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇

また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。

陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」

歩一〇四記念講演特集号より


釜石
釜石


昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。

それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。





先帝陛下(昭和天皇)が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
因みに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。

遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。

硫黄島
硫黄島


先帝陛下(昭和天皇)
昭和63年9月、先帝陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年間の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。

陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた陛下の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、陛下に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。

「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」




(参考)
平成5年、天皇皇后両陛下は、先帝陛下(昭和天皇)が果たされなかった沖縄御巡幸を果たされた。

平成6年、天皇皇后両陛下は、慰霊のために硫黄島をご訪問。

平成17年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにサイパン島をご訪問。

平成27年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにパラオのペリリュー島をご訪問。




●関連記事
フジTVが昭和の日を抹消!またドラマの小道具で日本を侮辱!カレンダーに昭和の日なし!画像あり
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6201.html

日曜は赤、土曜は青、問題の29日は真っ黒 フジTVが昭和の日を抹消!またドラマの小道具で日本を侮辱!カレンダーに昭和の日なし!画像あり
拡大画像
http://blog-imgs-93.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/www_dotup_org836366.jpg
フジテレビがまたドラマの小道具で日本を侮辱!
フジテレビは、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす【昭和の日】4月29日国民の祝日を抹消したカレンダー(小道具)を作ってドラマ内で放映した!




左:「さよならパヨク 」千葉麗子著(2016/4/16 )
中:「カエルの楽園」百田尚樹著 (2016/2/26)
右:「余命三年時事日記2」余命プロジェクトチーム著(2016/5/16)


左:カゴメ ふくしま産トマトジュース食塩無添加 スマートPET 720ml×15本
中:Panasonic 32V型 ハイビジョン 液晶テレビ VIERA TH-L32C6
右:「三島由紀夫が生きた時代 楯の会と森田必勝」村田春樹著(2015/10/20)


「陛下に感謝!」

と思う人は、↓クリックお願いします。↓





  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく
 ( ∪ ∪
 と__)__)

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

国連「男系継承は女性差別!夫婦同姓は女性差別!慰安婦対応は不十分!」女子差別撤廃委の支那人暗躍
↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓






「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、国連女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」
男系継承は女性差別」夫婦別姓を認めないのは女性差別」慰安婦対応は不十分」などの勧告最終案を取りまとめた国連女子差別撤廃委員会・副委員長の支那人「Zou Xiaoqiao」鄒暁巧(中華全国婦女連合会・国際部長)

http://www.sankei.com/politics/news/160309/plt1603090006-n1.html
【国連女子差別撤廃委】
男系継承を「女性差別」と批判し、最終見解案に皇室典範改正を勧告 日本の抗議で削除したが…
2016.3.9 14:30更新、産経新聞

 国連女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案に皇位継承権が男系男子の皇族だけにあるのは女性への差別だとして、皇室典範の改正を求める勧告を盛り込んでいたことが8日、分かった。日本側は駐ジュネーブ代表部を通じて強く抗議し、削除を要請。7日に発表された最終見解からは皇室典範に関する記述は消えていた。

 日本側に提示された最終見解案は「委員会は既存の差別的な規定に関するこれまでの勧告に対応がされていないことを遺憾に思う」と前置きし、「特に懸念を有している」として「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」と挙げた。その上で、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」と勧告していた。

 日本側は4日にジュネーブ代表部公使が女子差別撤廃委副委員長と会い、皇位継承制度の歴史的背景などを説明して「女子差別を目的とするものではない」と反論し削除を求めた。副委員長は内容に関する変更はできないが、日本側の申し入れを担当する委員と共有するなどと応じたという。7日の最終見解で皇室典範に関する記述が削除されたことについて、委員会側から日本政府への事前連絡はなかった。

 皇室典範に関しては、2月16日の対日審査だけでなく、日本政府が昨年9月に提出した報告でも触れていない。過去の最終見解でも言及されたことはない。外務省によると、2003年7月の対日審査で、皇太子ご夫妻の長女、愛子さまが女性天皇になる道を開くために「皇室典範の改正を検討したことがあったか」との質問が出たことがあっただけだという。

 ジュネーブ代表部は4日、慰安婦問題についても「日本政府の説明を全く踏まえていない内容で極めて遺憾で受け入れられない」との申し入れを行った。


国連女子差別撤廃委
国連女子差別撤廃委


>国連女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案に皇位継承権が男系男子の皇族だけにあるのは女性への差別だとして、皇室典範の改正を求める勧告を盛り込んでいたことが8日、分かった。


国連女子差別撤廃委員会に限らず、国際連合(正しい訳は「連合国」)というのは、本当に腐った傲慢な組織だ。

国連女子差別撤廃委員会には、日本という一国の在り方、国柄、伝統に対する理解や尊重が全く見られない。

国連女子差別撤廃委員会は、わが国の先人たちが、知恵を絞り苦労を重ねて125代の皇統(男系継承)を一度の例外もなく続けてきたのか全く分かっていない。

皇位の継承とは、全ての天皇の父をたどれば最初は神武天皇になるという2650年以上も厳然と続いてきた男系維持の伝統だ。

この系譜こそが日本の伝統であり、国の在り方そのものであり、理屈を越えた正統なのだ。

皇統は日本国の根幹をなすものであり、男系継承でなければ皇統とはならず、すなわち男系継承を途絶えさせることは、天皇や皇室を終焉させて日本を終焉させることと同じことだ。






>日本側は駐ジュネーブ代表部を通じて強く抗議し、削除を要請。7日に発表された最終見解からは皇室典範に関する記述は消えていた。


強く抗議して削除できるくらいなら、慰安婦問題や夫婦別姓などについての勧告も全て削除させるべきだった。





>日本側に提示された最終見解案は「委員会は既存の差別的な規定に関するこれまでの勧告に対応がされていないことを遺憾に思う」と前置きし、「特に懸念を有している」として「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」と挙げた。その上で、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」と勧告していた。


国連女子差別撤廃委員会から唐突に「男系継承(皇統)は女性差別」として皇室典範の改正を求める勧告が出たのには支那人が暗躍していたことが、読売新聞の記事で判明した。
国連女子差別撤廃委の報告書を取りまとめたのは、中国の民間団体「全国婦女連合会」国際部長を務める中国人女性!

読売には、この国連委員会の報告書の主査が中国の「全国婦女連合会」の国際部長で
日本政府関係者は「報告書の作成過程で、偏った考え方の団体や個人の話に依拠しすぎではないか」と疑問を投げかける。政府内には「委員会から脱退するべきだ」(政府高官)との強硬論もくすぶる。

読売には、この国連委員会の報告書の主査が中国の「全国婦女連合会」の国際部長で
まとめ役は中国人
報告書の取りまとめ役(主査)は、中国の民間団体「全国婦女連合会」国際部長を務める中国人女性(64)で、中国政府との結びつきが強いとされる。日本政府は、女性個人の意見が報告書に強く反映されたとみている。歴史認識を巡り、日本批判を国際的に展開してきた中国政府の意向が影響したとの見方もある。



>まとめ役は中国人
>報告書の取りまとめ役(主査)は、中国の民間団体「全国婦女連合会」国際部長を務める中国人女性(64)で、中国政府との結びつきが強いとされる。日本政府は、女性個人の意見が報告書に強く反映されたとみている。歴史認識を巡り、日本批判を国際的に展開してきた中国政府の意向が影響したとの見方もある。



「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」だ!
「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」

「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」

「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」

「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」
男系継承は女性差別」夫婦別姓を認めないのは女性差別」慰安婦対応は不十分」などの勧告最終案を取りまとめた国連女子差別撤廃委員会・副委員長の支那人「Zou Xiaoqiao」鄒暁巧(中華全国婦女連合会・国際部長)


読売新聞の記事では、「日本政府は、女性個人の意見が報告書に強く反映されたとみている。歴史認識を巡り、日本批判を国際的に展開してきた中国政府の意向が影響したとの見方もある。」とある。

しかし、私は、上記の日本政府の見方は、真相からずれていると考えている。

国連の支那人職員が国連で個人的な意見など主張することは基本的になく、支那政府の意向が反映されていると考えるべきであり、更に歴史認識とかは当該問題とは関係ないと考えるべきだ。

支那政府は、できることなら天皇や皇室を終焉させて日本を終焉させたいがために、「男系継承は『女性差別』」と主張しているのだ。

上述したとおり、皇統は日本国の根幹をなすものであり、男系継承でなければ皇統とはならず、すなわち男系継承を途絶えさせることは、天皇や皇室を終焉させて日本を終焉させることと同じことだ。

コミンテルン(ソ連や支那などの共産主義政党による国際組織)は、日本の強さの根源が天皇陛下と皇室にあると分析している。

コミンテルンの連中は、日本を侵略するためには、天皇や皇室を終焉させれば容易になると考え、そのために男系継承を終わらせようとしているのだ。


━━━━━━━━━━━━
▲間接侵略に対する最後の砦・天皇制▲

戦前、コミンテルンの日本担当グループは、どうしたら強大な日本国を無力化し、共産化し、ソ連の衛星国にすることができるのか、その答えを探るため日本史を熱心に研究した。
まもなく彼らが到達した結論が、「なによりもまず天皇制を破壊しなければならない」――だった。


(略)

かつてイギリスの清教徒は、宗教的な自信過剰から、王様を殺した。が、その後、国内の雰囲気は、うってかわって殺伐とし、暗くなった。国内の個人と個人は、互いの土地財産の強奪のチャンスをうかがう狼同士であるかのように猜疑しあった。それも当然だ。国家の伝統的な支配家族が絶滅すれば、それまでの臣民の土地所有権を保護してくれた法律体系や慣行も、権威源と正当性を失うからだ。
(略)
こうなると個人と個人、隣人同士の信頼感は希薄になり、社会はバラバラになり、経済も効率的に発展し得ず、文化活動などもおのずから停滞し、その国家のまとまりの弱さにつけ込んでヨーロッパの外国がイギリスに侵略/干渉がしやすくなる。ますます社会には不安感がみなぎっていくのである。
こんなありさまになったのを見て、ゲルマンの武侠と自由主義の伝統精神を愛するイギリス人は反省した。
彼らは、イギリスに縁の深い古い血筋を持つ王様候補を対岸のオランダから連れ込むことにした。たちまち、国内の人民に、法治社会に対する信頼感が回復した。法的な秩序体系は、長期的にずっと安定して続くのだと予期する気持ちが、人々の間に戻ったのである。イギリスはそこから、世界の自由と秩序のリーダーとして飛躍を始めた。

(略)

優秀なコミンテルンの政治分析者はすぐに察することができた。日本の歴史的秩序の核心は、一見すると無権力な朝廷の存在だと。帝室が過去から未来まで連続するという安定感のために、日本の内戦は、完全な秩序崩壊には決して至らず、外国の傀儡勢力が暴力で政権を奪取することは難しいのだ。
しからば外国はこの天皇制をどうやって破壊できるか?まず、歴史をさかのぼって、その根源の血統に、庶民の疑いの目を向けさせることだ。
この作戦の1つとして、「大和朝廷=もと朝鮮人」説が、さかんに宣伝されるようになった。義務教育の歴史教科書に神話を載せるなという反日団体の要求も、この運動方針に沿う。
もう1つの破壊方法は、帝室を不必要なまでに政治に関与させることである。天皇への外交コメント強要、天皇皇后への外遊強要、皇族からの政治的発言の引き出しなどが、その常套手段である。
(略)
高度成長期以後の新戦術としては、「開かれた皇室」運動や、「女系天皇容認」運動がある。

P174-177
『日本有事』(憲法を棄て核武装せよ)兵頭二十八著

━━━━━━━━━━━━



国連は日本に対して、「死刑を廃止しろ」とか「慰安婦に謝罪と補償措置を講じろ」とか「ヘイトスピーチをやめろ」などと内政干渉をしたり、不当な圧力をかけたりしており、確信犯的に日本を貶め、滅ぼそうとしている。

今回も「夫婦別姓は、女性差別だ」と言い、「男系継承(皇統)は、女性差別だ」とまで勧告しようとしていた。

北朝鮮なんて、国連機関や外国から援助を貰うために意図的に大量の人工餓死者を出しているが、それをやめさせようともせずに国連機関による援助と人工餓死の大量発生を繰り返している。

国連が死刑の廃止を訴えるのは、共産主義者やテロリストによる共産革命などをし易くするためだ。

このように、国連(正しくは連合国)や国連世界食糧計画(WFP)や国連開発計画(UNDP)や国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、共産主義者の巣窟であり、テロ支援組織なのだ。

このような共産主義者たちのテロ支援組織に日本国民の血税を投入し続けるのは、おかしい。

国連分担金は日本にとって酷い税金の無駄使いだけではなく、共産主義者たちのテロ支援になっているのだ。

日本は毎年巨額の国連分担金を支払っているが、これは、常任理事国である支那やロシア、事務総長の母国である韓国の何倍も多い。

日本が国連を脱退するメリットは分担金の消滅など非常に大きいが、デメリットは皆無に等しい。

私は、10年くらい前から「日本は国連を脱退するべきだ」と繰り返し訴え続けている。


最近では、アメリカ人のケント・ギルバートも「日米両国は国連を脱退して、新しい国際組織の創設を呼びかけるべき」と訴えている。

日本でタレントをしていた米カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート



左:「そうだ難民しよう! はすみとしこの世界」はすみとしこ著(2015/12/19)
中:「余命三年時事日記」余命プロジェクトチーム著 (2015/12/17)
右:「三島由紀夫が生きた時代 楯の会と森田必勝」村田春樹著(2015/10/20)


左:カゴメ ふくしま産トマトジュース食塩無添加 スマートPET 720ml×15本
中:Panasonic 32V型 ハイビジョン 液晶テレビ VIERA TH-L32C6
右:『日本の自立 戦後70年、「日米安保体制」に未来はあるのか?』西村幸祐著、ケント・ギルバート著 (2015/8/7)


「ふざけるな!国連(連合国)!」

と思う人は、↓クリックお願いします。↓





  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく
 ( ∪ ∪
 と__)__)
>>続きを読む

テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

昭和天皇とパラオのペリリュー島の戦い・昭和の日・日本国民を励ました先帝陛下のお言葉と全国ご巡幸
↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓






先帝陛下(昭和天皇)昭和の日
先帝陛下(昭和天皇)

http://www.sankei.com/life/news/150416/lif1504160020-n1.html
両陛下、武蔵陵墓地ご参拝 パラオ慰霊訪問を報告される
2015.4.16 11:59、産経新聞

昭和天皇の武蔵野陵を参拝し、パラオ訪問について報告された天皇陛下=16日午前、東京都八王子市
昭和天皇の武蔵野陵を参拝し、パラオ訪問について報告された天皇陛下=16日午前、東京都八王子市

 天皇、皇后両陛下は16日午前、東京都八王子市の武蔵陵墓地にある昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)と香淳皇后の武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)を参拝し、パラオ共和国への慰霊訪問を終えたことを報告された。

 両陛下の2陵ご参拝は、外国訪問前後の慣例。陛下はモーニング姿、皇后さまはグレーの参拝服姿で、武蔵野陵、武蔵野東陵の順にお一人ずつ足を運び、深々と頭を下げられた。

 両陛下はともに3月下旬から風邪の症状がみられ、完全に回復しないまま4月8、9日の強行日程でパラオ訪問を果たされた。宮内庁幹部は「お疲れになったと思うが、帰国翌日から普段通りの生活に戻られている」としている。


両陛下、パラオ訪問を報告 昭和天皇の武蔵野陵を参拝
両陛下がパラオ慰霊訪問を報告されるため、昭和天皇の武蔵野陵をご参拝(4月16日)


【先帝陛下(昭和天皇)の心を動かしたペリリュー島の戦い】

米軍は、2~3日で、パラオのペリリュー島を攻略できると計画していた。

ところが、ペリリュー島の日本軍守備隊は、1944年9月15日早朝に米軍第一海兵師団28,400名がオレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始してから、73日間にわたって、ペリリュー島を死守した!

当時、既にサイパン、グァム等で敗北が相次いでいた日本にとって、パラオのペリリュー島の大奮戦は、先帝陛下(昭和天皇)や日本軍にとっては希望の光となった。

先帝陛下(昭和天皇)は、毎朝ペリリュー島の状況を気にされていたご様子であり、「いまペリリューはどうなっておるか」と御下問されることが日課となっていた。

そして、先帝陛下(昭和天皇)は、ペリリュー島の守備隊に対し、9月15日・17日・22日10月6日・18日・24日11月2日・7日・13日・14日・20日と11回もご嘉賞(お褒め)のお言葉を送られ、感状3回を与えられている。

11回のご嘉賞の言葉を得た部隊は、その前にも後にも例がなく、先帝陛下(昭和天皇)にとってペリリュー島の戦いが、どれだけ心を動かされたものだったかが分かる。

このようなこともあり、ペリリュー島は、米軍から「天皇の島」と呼ばれた。

米第81師団長ムラー少将は、長期にわたる大苦戦の末にペリリュー島をほぼ制圧すると、「今やペリリューは天皇の島から我々の島に移った」と宣言した。

ちなみに、アメリカは、パラオ、サイパン、硫黄島、そして東京を結ぶ線について、昭和天皇がいる帝都・東京を少しでも早く攻撃するための「裕仁(ヒロヒト)(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでいた。

パラオ、サイパン、硫黄島、そして東京を結ぶ線をアメリカは、昭和天皇がいる帝都・東京を少しでも早く攻撃するための「裕仁(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでいた。

(参考)
平成5年、天皇皇后両陛下は、先帝陛下(昭和天皇)が果たされなかった沖縄御巡幸を果たされた。

平成6年、天皇皇后両陛下は、慰霊のために硫黄島をご訪問。

平成17年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにサイパン島をご訪問。

平成27年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにパラオのペリリュー島をご訪問。



━━━━━━━━━━
パラオ

【日本とパラオの物語】
ペリリュー島の桜花


1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」において、パラオは日本の委任統治領となった。

日本国政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島となった。

日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住して、最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人も約2千人が居住していた。

日本の統治時代には、パラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校、病院、道路などのインフラの整備も重点的に行われ、首都のコロールは近代的な都市へと変貌していった。
コロール
コロール

日本は、パラオの住民に、疾病に係る予防接種を受けさせ、また、パラオの言語を顕すための文字を持たないパラオ住民のために、学校を建てて日本語の教科書を用いた日本語教育も行った。
パラオの言語を顕すための文字をもたないパラオの住民のために、学校を立てて日本語の教科書を用いた日本語教育もしました。

日本統治後のパラオでは、それまでの白人による植民地時代とは異なり、日本人の礼儀正しさや、節度、道徳心、他民族を思いやる心などが認められ、日本人はパラオの現地住民から愛された。

パラオには、太平洋上のパラオ諸島の中に「ペリリュー島」と言う南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた小島がある。
このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました

このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り広げられた。

1941年(昭和16年)に大東亜戦争が始まると、日本軍は「ペリリュー島」に東洋最大といわれる飛行場(1200m滑走路2本)をつくっていた。

パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。
パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。

大東亜戦争で日本軍が劣勢となる中、ペリリュー島は日本軍にとってフィリピン防衛の防波堤だったが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとってもペリリュー島の攻略が必要となった。

1944年、米陸軍を指揮するマッカーサーは、フィリピン攻略を有利に進めるため、「ペリリュー島」を奪取しなければならなかった。

米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団にペリリュー島の占領を命令し、ハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻の艦艇を海兵隊支援のために差し向けた。

これら米軍は、日本軍の兵力の約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の軍事力であり、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃なども考慮すると、米軍が数百倍の火力で日本軍を圧倒していた。

ペリリュー島を守備する日本軍は、関東軍最強と呼ばれた第十四師団、その座下の水戸歩兵第2連隊、高崎歩兵第15連隊を主力とした地区隊、約1万2000人だった。

すでに、数百倍の軍事力に加え、制海権も制空権も握っていた米軍は、2~3日の攻撃でペリリュー島を攻略できると予測をしていた。

9月12日に米軍は、ペリリュー島に艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせた。

ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸があるが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まったことから、こう呼ばれるようになったとも言われている。
ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸がありますが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まった事から、こう呼ばれるようになったとも言われています。

9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名が、オレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始した。

圧倒的勢力を持つ米軍は、この上陸作戦は短期間で終結すると考え、昼食をオレンジビーチで取る予定でいた。

ところが、日本軍守備隊は激しく抵抗して持久戦に持ち込み、米軍第一海兵師団は全体の50%もの損失を出したので一旦撤退し上陸戦は長期化した。

11月24日、生き残った日本軍将兵はわずか60人足らずとなり、司令部陣地の弾薬もほとんど底をついたところで、司令部はついに玉砕の決断を下した。

守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られて、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による万歳突撃が行われた。

結局、米軍が上陸完了をしたのは11月27日だった。

日本軍は、実に73日間にわたって、ペリリュー島を死守したのだった!

日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」ということを伝えるためのものだった。
日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」、という事を伝えるためのものでした

ペリリュー島には現住民が住んでいたが、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでなかった。

ペリリュー島民は、日本人を尊敬していたので大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていたが、日本軍が島民を戦火に巻き込んではならないとしたからだ。

戦局を予期していた日本軍司令部の命令により、ペリリュー島民のパラオ本島への移住をほぼ完了させ、一部残った島民も疎開させるために戦火の中をパラオ本島へと送り出していた。

――――――――――
「ペリリュー島の戦い」

日本軍
戦死者 10,695名
捕虜   202名
※戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、戦後も2年戦い続け、昭和22年に投降。

米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
※この他に精神に異常をきたした者が数千名。

住人
死者 0名
負傷者 0名

――――――――――


この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っている。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。

「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」

沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。

それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。

船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)
守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)

近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』「パラオ・ペリリュー島の桜花(1)、中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならない、桜花のごとく散った日本軍の武士道精神」より、一部を修正し、抜粋
━━━━━━━━━━
●詳細記事
パラオのペリリュー島の桜花・天皇皇后両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5788.html
続★パラオのペリリュー島の桜花・両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?」
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5789.html
フジが日本パラオ友好の橋を報道・「韓国が造った橋が突然崩落」・ペリリュー州が4月9日を祝日に
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5790.html






【先帝陛下(昭和天皇)のお話】

●戦中
アッツ島の日本軍守備隊
アッツ島の守備隊

昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、先帝陛下(昭和天皇)は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。

5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」

陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。

そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」 と申上げると、

陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。

陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。

勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。


1943年5月,アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品がアンカレッジの博物館に展示されている。
アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている

『 凛として愛 』
■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U

57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。






●戦後

先帝陛下昭和天皇行幸
先帝陛下(昭和天皇)の戦後の全国ご巡幸

毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。

日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。

このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。

まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。


昭和天皇(先帝陛下

●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉

「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。


九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。





【マッカーサーおよび侍従長の証言】

以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。

「天皇の話はこうだった。
 『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)

天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。

しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。

メールマガジン
「話題通信」



昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk






戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜

●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇

また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。

陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」

歩一〇四記念講演特集号より


釜石
釜石


昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。

それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。





先帝陛下(昭和天皇)が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
因みに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。

遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。

硫黄島
硫黄島


先帝陛下(昭和天皇)
昭和63年9月、先帝陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年間の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。

陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた陛下の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、陛下に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。

「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」



「陛下、ありがとうございました!」

と思う人は、↓クリックお願いします。↓





  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく
 ( ∪ ∪
 と__)__)

テーマ:歴史 - ジャンル:政治・経済

copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.